先日とてもありがたく友人のUさんから原稿を頂きました。このブログでは、友達の素敵な原稿を読者の皆様に紹介できるのをとても嬉しく思っております。以前は、TさんとRさんもポストを書いてくれました。
今回は、生活が変わることにつれて何か書きたく読みたくことも変わっていくのと、大きな栞の話を教えてくれるUさん。ぜひご覧くださいませ。以下ゲストポスト。

U.
友人のMs. Nakayoshiが最初にゲストポストに誘ってくれたのは、去年の夏。私が喧噪に包まれた東京のど真ん中から県境を越えて海沿いの街に引っ越しを済ませたちょっと後だったと思う。
あれから半年が過ぎて。ようやく、なのか、もう、なのか。あの街にいた私と今この街で暮らす私では、変わらないようでいてやっぱり確実に変わったことがある。いや、“戻った”というべきだろうか。それは至ってささやかで個人的なことだけど、同時に大声で叫びたいくらい、だれかれ構わずハグをしたくなるくらい嬉しいことで、親愛なるMs. Nakayoshiにこの場所をお借りして、少しだけその喜びを綴らせてもらおうと思う。
20代後半から30代半ば…という女性にとっては恐らくセンシティブな時代を過ごした土地、それが以前住んでいた新宿という街だった。
新宿は懐が深い。億万長者もホームレスもゲイも赤ちゃんもキャバ嬢もサラリーマンも友情も失恋も過去も未来も幸福もどん底も、あの街はすべてを包み込む。癒しはしない。鼓舞もしない。ただ、大きな口をあんぐり開けて何もかもを飲み込み、ぐちゃぐちゃとかみ砕き、混沌を一つの色として認める、そんな正体不明な巨大生物の胃の中のような街だ、と私は思っている。
あの街に住んでいた頃の私といえば、巨大生物の胎内で七転八倒する混沌の一部として、日々を仕事・仕事・仕事に明け暮れていた。生業は文書き屋。「文筆家」などと大層な言葉は似合わない、利権や欲望を煮詰めまくったshowbizの世界のはしくれでクライアントのわがままに振り回されながら言葉を浪費するのが私の仕事だ。夜から次の夜へ、眠らずにただひたすらにPCと向かい合う生活が私は存外好きだった。そして性に合っていた。それはたぶん、そこが清濁入り混じる新宿という場所だったからというのもあるだろう。この街でしか自分は暮らせない、とさえ思っていた。

私はとても満足していた。生き生きもしていたと思う。でも同時に疲れていた。それが今振り返って分かるのは、あの街にいた私は、長い間ずっと本が読めなかったからだ。
幼い頃から、私は読書が大好きだった。特に好きなのは小説の類。転校っ子だったため、住まいと友達はコロコロ変わったが、小説を読むことだけはずっと続いた趣味であり拠りどころでありアイデンティティだった。
けれど、年を重ね、賑やかな新宿に住まい、時間に追われながらせっせと文章を吐き出す毎日を続けていたら、いつの間にか自由に読書を楽しめなくなっていたことに気がついた。読み始めても読み終えられない。新しい本を買っても、家に帰ったら1ページも開かぬまま本棚に押し込める。はっきりとした理由は分からない。仕事で忙しいのは確かだが、それだけが原因ではない。似て非なる小説家という立場への嫉妬もあったかもしれないし、執筆作業の裏側にある阿鼻叫喚を知ってしまったからかもしれないし、単に「読みたい気分」じゃなかったのもしれない。何年も。
「積読(つんどく)」とは、文字の通り入手した書物を読まずに積んだままにしておくこと、という意味で日本語にしかない表現らしい。けれども国を問わず多くの人が思い当たる行為だろう。新宿で暮らしていた頃の私は、積読の塔をいくつも建設していた。一冊積むたびに胸の中にも何か嫌なものが絡まりながら積み重なっていったことを覚えている。アイデンティティとまで自負していた趣味を怠る焦燥感か、買った本への罪悪感か。その意識を今度こそ払拭しようと本屋に出向き、また積読を繰り返す。夏休みの宿題で読書感想文に頭を抱える小学生じゃあるまいし、たかだか読書でそんなに心を追い込む必要などないじゃないか、と次第に積読する自分にも慣れ、新宿での生活が終わる頃にはもはや家の本棚もインテリアの一部になっていた。
そして去年の夏。私は結婚を機に新宿から離れることになった。
生まれて初めて自分自身でここに住もうと決めた街と、生まれて初めてこの人と暮らそうと思った街が違っただけ。新宿から飛び出すにはそれだけの理由で十分だった。
膨大な書籍は持って行った。本棚にどう配置しようか思案するのは楽しい。でも表紙を開きページをめくることはないだろうと思っていた。
今、私が住んでいる街は、新宿とは正反対の静かでのどかな片田舎…という展開だったら恰好がつきそうだが、実際には少々歩けばデパートも複数の路線が交差する駅もある、普通の住宅街だ。
だけど、海がある。家のベランダと並行するように太平洋の水平線がうっすらと真横に延び、首を右に向けると遠くにかすむ富士山が見える。そして目いっぱいに広がるのがただひたすらに静かな青い空だ。夜空の星より繁華街のネオンの眩しさに目を細め、ビル風の冷たさに季節の移ろいを感じていた新宿の暮らしではありえなかった景色。どちらが良い、優れている、という話ではない。ただ、この街に越してきてから、私は毎日ベランダに出てこの景色を眺めている。北鎌倉の方から太陽は昇り、江の島の真上をのんびり通過して、伊豆半島の先へゆっくりと沈んでいく。今日が始まる、今日が終わる、そして同じ場所からまた明日が始まる。私はその景色に、なぜだか本に挟む栞を思った。
「ノンストップにエネルギッシュに呼吸をこらえて」それが私らしい生活だと思っていた。本を読むのも同じ。読書とは、熱にうかされ高鳴る心臓音をリズムにページをめくり続けるものだといつしか思い込んでいた。仕事があるから眠くないからと、とどまることができずに少し疲れた私自身が積読に姿を変えていたのかもしれない。それでも、あの街が好きだった。どんな自分でも丸ごと飲み込んでくれたから。

でも今、私は新宿にいない。遊びに行くことはもちろんあるが、暮らすことはおそらくもうないだろう。
充実と疲労の渦で生きてきた私は、好きな人に出会いあの街を出て、今、夕暮れの水平線を眺めている。栞をそっと差し込むように、私の人生に「ちょっと一息」を挟んでみたら、心にあった絡まりがじんわりとほぐれていくような気がした。
この街で暮らし始めて、私はまた本を読むようになった。
活字を追う作業は慣れも必要だ。長いこと読書から遠ざかっていたし、相変わらず仕事は続けているわけだから、お風呂の中や就寝前など限られた時間を見つけて本を開いている。ベッドに入ってから、あ、今日1ページも読んでないや、と気づく日もあるし、続きが気になって気になって瞼が落ちる直前まで本を離さない日もある。頻度や密度は子供の頃とは比べものにはならないが、私の人生に読書が戻ってきたのだ。
好きなときに、好きなだけ。嫌なときは、ためらわず。
たとえこの先再び読書から離れる日が続いたとしても、それはそれでいい。そう思えるまでになった。栞を挟んでおけば、いつでもまた始められる。
夏に移り住んで秋を過ごし、今、冬のただ中にいる。もう少ししたら、景色の中にもあたたかな色たちが増え、また私はこの街を好きになるだろう。
本を片手にベランダで吐く息を白くしながら、まだ見ぬ春を待ちわびている。